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第5話 もう少しだけ

last update publish date: 2026-07-23 05:54:24

「三日森くん。三日森くん、起きて。駅に着くよ」

 身体を揺すられて僕は目を覚ます。

 なんだか柔らかくて心地良いところに頭をのせているようで、できることならもう少し眠っていたかった――と考えたところで、僕はぎょっとして目を見開いた。

 目の前に月子の顔がある。

 もっと手前に膨らんだ二つの、いわゆる母性の象徴がある。

 つまり、この体勢は紛うことなき、膝枕――だった。

「うわぁぁぁっ、ごめんなさいっ」

 慌てて飛び起きると僕は自分の膝に両手をのせてお行儀良く座り直す。

 それを見て月子が笑った。

「気にしないで。こんなときなんだし」

 月子はスカートのしわを伸ばしながら立ち上がると、僕に右手を差し出してきた。

 今日は何度も僕にふれてくれた白くて柔らかい手だ。それを取って立ち上がると、列車は程なくして目的の駅に到着する。

 扉が開くと、むせかえるような外の熱気と夏のニオイが全身を包み込む。燦々と降り注ぐ陽光の下、駅の屋根が落とした影がホームの床に白と黒のコントラストをくっきりと浮かび上がらせていた。

 セミの大合唱が鼓膜を揺らし、またもや頭がクラクラして足下がふらついてしまう。それを月子は当然のように支えてくれた。

 彼女に介護されながら歩き始めると、僕は駅の階段を上ったり降りたりして、ようやく改札をくぐる。いつもは何気なくやってることが一苦労だ。

「うぅ……格好悪い」

「また言ってる」

 月子に笑われて僕は赤面した。いろんな意味でばつが悪い。誰にも頼らないなんて言っておきながら、僕は今日だけでどれほど月子の世話になったことか。

 なんだか誤魔化したくなって僕は投げやりに挑発的なことを口にする。

「ああ、ここに居るのが君じゃなくて彼女だったらなぁ」

 こんな失礼なことを言われて月子はきっと怒るだろうと思っていたのだけど、まったくその様子もなく、ごく自然に言葉を返してきた。

「それを実現するためには、まず告白しないとね」

 あてが外れた僕は、やむを得ずそのまま話を続ける。

「告白はしないよ」

「どうして?」

 以前とよく似たやりとりだ。

 何度言われてもやっぱり僕は自分の恋に納得がいかない。名前も声もなにもかも知らない相手を、どうして好きになったんだろう。

 その説明をまた繰り返そうとしたところで、月子がとんでもないことを言った。

「他の男に寝取られてもいいの?」

「…………」

 絶句して月子の顔を覗き込む。なぜか彼女は真顔だったが、この一瞬は本気で身体の具合が悪いことを忘れた。

「なっ、なっ、なんてことを言うんだよ、君は!? 女子高生にあるまじき発言だ!」

「どうにも君は想像力が足りないみたいだからね。自分が恋人にならないってことは、いつかは必ずそうなるってことでしょ? 彼女みたいな美人はとくに」

「そ、そ、それは、その……」

 確かにそうかも知れない。そこまで考えてなかったことも認める。

 だけど、いま僕を支えている君の胸が僕の腕にあたっているこの状況で、そんなことを言い出しますか?

 変な気持ちになったらどうするんだ? 誘惑か? 誘惑なんですか!?

 まさか、このまま僕を家まで送っていって、誰も居ない家でふたりっきりで――て何を考えているんだ僕は!? 変態か!? 変態だったのか僕は!?

「えーと、なんかごめん。そんな壮絶な顔をするなんて思わなかったから……」

 心底申し訳なさそうに言われて、僕はガクッとうなだれた。

 壮絶な顔ってどんな顔なんだろうと思いながら……。

◆

 長く広い坂道を僕は月子に支えられながら歩いていく。このあたりには木陰もなく、照りつける陽射しと、焼けたアスファルトから立ち上る熱気で、蒸し焼きにされそうな気分だ。麗しの我が家まであともう少しだが、そのもう少しが今はなかなかにキツイ。

 僕に肩を貸しながら歩く月子は物珍しげに辺りを見回しながら、独り言のように言う。

「海辺の町か。いいところに住んでるわね」

 坂の向こうには入道雲が浮かんだ青空と、その下に広がる青い海が見事なパノラマを演出している。景観だけ見れば実際いいところなのだろう。

 でも、ここで暮らすとなると、いろいろとたいへんなことが多い。僕は重たい足を引きずるように前に出しながらボソリと言った。

「塩害って知ってる?」

「ああ、そういえば金属が錆びるんだっけ?」

「うん。それ以外にも色々とね」

 自転車やエアコンの故障はもちろんのこと、家にはダメージが出るし、洗濯物にも悪影響が出る。風は強いし水害は恐いしと、メリットよりもデメリットのほうが多いのではなかろうか。

 少なくとも僕は、早めにこの町を出て行きたいと思っている。それはもちろん過去にあんなことがあったってのが最大の理由だけど。

 物思いにふけりかけた僕の隣で月子が残念そうに言った。

「そっか、潮の香りはステキだし、景色もこんなにいいのにねぇ。まあ、デートには最適って気もするけど」

 しみじみという月子に、僕は思いついたことを聞いてみる。

「そういえば、月子の家ってどこなの? あの日はいつの間にか車内に居たけど」

「わたしは茜川」

「へ?」

「学校のすぐ近くよ」

「け、けど、前に……」

「あの日は祖父の家に泊まってて、そこから直接学校に行ったからね」

「てことは電車通学ですらないのに、わざわざこんな所までの切符を買って……」

「お金を出すとか言ったら怒るからね」

「で、でも……」

「君はもう少し、人の善意に慣れたほうがいいわ」

「…………」

 今さらながらに僕は後悔していた。あんなことを話すんじゃなかった。どう考えても格好の悪い昔話なのに。

「ねえ、月子……。できれば、あの話は……」

「誰にも言わないわよ」

「いや、それはもう疑ってないけどさ。できれば忘れて欲しいかなって……」

「格好悪いとか思ってる?」

「悪いでしょ?」

「それはないわ。だって君はただの被害者だもの。格好いいとか悪いとか、そういう次元の話じゃないわよ。それとも……」

 月子はわずかにうつむいて少し考える仕草をした。そして顔をこちらに戻すと、やや上目遣いに僕を見つめて口を開く。

「君は何かを恥じているの?」

 言葉を見つけられずに僕は黙り込んだ。

 月子は答えを急かすことなく僕を支えたまま歩き続ける。

 日差しの強さとむせかえるような熱気。潮の香りをのせた海からの風が、それらをやわらげてはいたが、快適には程遠い。セミは相変わらずけたたましく鳴き喚いている。

 けっきょく僕は最後まで黙り込んだまま家まで歩きつづけた。

 やがて姿を現した見慣れた門扉をくぐると、惰性のまま鍵を開けてドアノブを引く。

「それじゃあ、ゆっくり静養するのよ」

 玄関に入ったところで月子は言った。

「うん……」

 僕はぼんやりと頷く。

 月子の問いかけへの答えを見つけられないことが気になっていた。

『君は何かを恥じているの?』

 たぶん――いや、間違いなくそうだ。

 なのに、それがなんなのかわからない。あるいは忘れてしまったのか。

 頭を抱えようとして、僕はまだそこに月子が立ったままでいることに気がついた。

 すぐに出て行くかと思ったけど、相変わらず自然な笑顔を浮かべて僕をじっと見つめている。不思議そうに見返すと、彼女はゆっくりと話しかけてきた。

「ねえ、三日森くん。わたし達ってまだ高二だよ。見てないものも知らないものも、世界にはまだまだたくさんある。どんなことであれ、結論を急ぎすぎる必要はないんじゃないかしら?」

 なぜ急にこんなことを言われたのか――なんて首を傾げるほどには僕もマヌケじゃない。

 同時にようやく理解していた。僕の昔話を聞き終えたあと、月子がすぐには何も言わなかったわけが。

 それはちゃんと考えてくれていたからだ。

 当たり障りのない慰めの言葉を口にすれば簡単に済むのに、わざわざ月子はあんな面白みのない話を咀嚼して、僕にかけるべき言葉を選び抜いてくれた。

 月子の言葉の意味は、こんな僕にも理解できる。

 あの事件を切っ掛けに、僕は誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしない。なんてルールを作って自分の生きかたを曲げてしまったけど、そんな判断を下せるほどには、僕は世界のことも人間のことも、よく知っているわけじゃなかった。

 少なくとも、ここに月子が居る。

 僕はそれを知らなかった。知っていれば、あんな決めつけはできなかっただろう。

「ありがとう」

 自然と、その言葉がこぼれ落ちていた。

「考えてみるよ」

 今さら急に生き方を変えるなんて難しい。それでも――

「考えてみるよ。もう少しだけ、ちゃんと世界を見てみる」

「うん」

 僕の言葉に月子が嬉しそうに笑った。他に好きな人がいる僕にとっても、それはとても素敵で魅力的な笑みだった。

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